『装飾と罪悪』(アドルフ・ロース著)p.63「文化の堕落について」
「我々の座り方というものは、家具職人が椅子をそう作ったから、それに従ってそう座るというものではなく、これと逆で、我々が座りたいように、家具職人は椅子を作るのである。」
中心人物であるヘルマン・ムテジウスが規格化を重視していたドイツ工作連盟を取り上げて、芸術文化の矛先が間違った方向に向かっていると批判。それに対する自分の理論を二項対立的に提示している。
ドイツ工作連盟は「我々の時代の様式を見い出そう」と主張しているのに対して、ロースは「我々の時代の様式というものは、現に存在している」と激しい非難の文章を書いている。産業と芸術の統一を図ろうとしたドイツ工作連盟は、形態を統一する規格化を様式と捉えた。彼らのいう様式はフォーム(形式)であり、スタイル(やり方)とは遠いものになっていた。
「生活に欠かせぬ日用品・・・人がつくるものでも、組織がつくるものでもない。時代がつくるのである。それらはまた、年々、日々、刻々と変わるものである。」
柳宗悦の民藝運動と同じ思想である。アーツ・アンド・クラフツの思想をそのまま受け継いだ活動家たちであり、産業にその思想を取り入れたインダストリアル・デザインとは根本的に異なるのである。
ロースはヘルマンを批判しているのに対し、柳宗理は父・宗悦を批判してインダストリアル・デザイナーとなった。
「時代の流れに逆らって、手に傷を負わなかった者はいないことを肝に銘ずべきである。」
かつて激しい非難を浴びたロースは、もはや完全なる保守派である。
「・・・間違っていない、とだけ言っておこう。・・・だろう、と思う。・・・ない、と言える。」
彼自身は"美しいものは何か"ということに関しては断言することはない。それは彼に寄付をしたヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」に通ずるものがあるのではないか。
「刺青などしていない顔の方が、している顔などより、よほど美しい」と近代人のスタイルを、自身の顔とドイツ工作連盟のウィーン代表者であるヨーゼフ・ホフマンの顔のスケッチを比較している。シワだらけの痩けた老人と、シワのない眼鏡をかけたふくよかな中年男性が描かれている。正直、わかりにくいので彼らの画像をwikiからもってきた。
ヒゲを比較するとわかりやすい?かな
アドルフ・ロース(左)ヨーゼフ・ホフマン(右)
「芸術と日用品をそのように混同することは、芸術に対するこれ以上ない冒涜といえる。」
芸術というのはあくまでも非日常のものであると言っている。
彼は最後にゲーテの言葉を引用しているが、私も最後にゲーテの言葉を引用したい。
「古典的なものを私は健全なものと呼び、ロマン的なものを病的と呼ぶ。」(エッカーマン「ゲーテとの対話」1829月4月2日)